一切我説きて之を名けて犯と爲す。迦葉、五无間罪も、若し堅住し堅執し堅着して見を生ぜずば、我彼を説きて名けて犯と爲すと曰はず。況や復餘の少不善の業道をや。迦葉、我不善の法を以て而も菩提を得るにあらず、亦善法を以て而も菩提を得るにもあらず。乃至 煩惱は因縁より生ずと解知するを、菩提を得と名く。迦葉、云何なるをか因縁より生ずる所の煩惱を解知すと爲ん。是自性无くして起る法は、是无生の法なりと解知す。是の如く解知するを菩提を得と名く」と。又『決定毗尼經』(意)に云く。「大乘の中に於て發起し修行するに、日の初分の時に所犯の戒有るに、日の中分に於て一切智の心を離ずば、是の如きの菩薩は戒身壞せず。若し日の中分に所犯の戒有るも、日の後分に於て一切智の心を離れずば、是の如きの菩薩は戒身壞せず。乃至 若し夜の後分に所犯の戒有るも、日の初分に於て一切智の心を離れずば、是の如きの菩薩は戒身壞せず。是の義を以ての故に、菩薩乘の人は開遮の戒を持てば、設ひ所犯有りとも應に失念して妄に憂悔を生じて、自ら其の心を惱ますべからず。聲聞乘に於て所犯有る者は便ち聲聞の淨戒を破壞しつと爲す」と。云云 一切智の心とは、餘處の説に准ずれば、是第一義空相應の心なり。或は可し、是佛の種智を願求する心なりと。 問。若し懺悔を修するに能く衆罪を滅せば、云何ぞ『大論』の四十六には、「戒律の中の戒は復細微なりと雖も、懺悔すれば即ち淸淨なり。十善戒を犯せば復懺悔すと雖も、三惡道の罪除こらず」と云ひ、又『十輪經』(卷四意)には「十惡の輪罪を造れば、一切の諸佛の救ひたまはざる所なり」と説くや。答。『觀經』には十念して能く五逆を滅し、『觀佛經』には佛の一相を念ずれば、能く十惡・五逆を滅し、『大經』には闍王殺父の罪を懺除し、『般若經』には讀誦し解説すれば能く三界の衆生を殺害せる罪を滅して、惡趣に墮せず、『華嚴經』には普賢の願を誦するに、一念に能く十惡・五逆を滅すと。