明らかに知んぬ、大乘の實説は、罪を滅せずといふこと无きを。然ば此の論文は、或は是轉重輕受にして全く受けざるに非ざるを、之を除かずと名く。或は是隨轉理門の説ならん。又感禪師(群疑論卷三)『十輪經』を會して云く。「如來の密意は罪を畏れしめんと欲するなり」等と云云。餘は下の料簡の念佛相門の如し。此等は皆是別時の懺悔なり。然るに行者常に當に三事を修すべし。『大論』(卷七)に云ふが如し。「菩薩は必ず須く晝夜六時に懺悔・隨喜・勸請の三事を修すべし」と。略抄 五念門の中の禮拜の次に應に此の事を修すべし。『十住婆娑』(卷五)の懺悔の偈に云く。「十方无量の佛は、所る知盡くさざること无し。我今悉く前にして諸の黑惡を發露せん。三三合して九種あり、三の煩惱より起る。今身若しは前身の、是の罪を盡く懺悔せん。三惡道の中にして、若し受くべき業報は、願はくは今身に償ひ、惡道に入りては受けざらん」と。三三合して九種とは身口意に各々現・世・後有り、自作・敎使・見作隨喜なり。三の煩惱より起こるとは、三界・三毒・三品煩惱なり 勸請の偈(十住毘婆沙論卷五)に云く。「十方の一切の佛、現在に成佛したまへる者を、我請ひたてまつる、法輪を轉じて諸の衆生を安樂ならしめたまへ。十方の一切の佛、若し壽命を捨てんと欲したまはば、我今頭面に禮し、勸請して久しく住せしめん」と。隨喜の偈(十住毘婆沙論卷五)に云く。「所有布施の福も、持戒と修禪の行も、身口意より生ず、去・來・今に所有、三乘を習行する人、三乘を具足せる者、一切の凡夫の福、皆隨ひて歡喜せん」と。已上 又常行三昧・法華三昧・眞言敎等に、皆各々文有り。意に隨ひて之を用ひよ。若し略を樂はば、『彌勒菩薩本願經』の一偈に依るべし。『經』に云く。「佛阿難に語りたまはく。彌勒菩薩、本道を求めし時、耳・鼻・頭・目・手・足・身命・珍寶・城邑・妻子及以び國土を持ちて、布施して人に與へて以て佛道を成ぜしにはあらず。但善根・安樂の行を以て、无上正眞の道を致すことを得たりと。阿難佛に白さく。彌勒菩薩は何なる善根を以てか佛道を致すことを得たるや。佛阿難に語りたまはく。