「阿彌陀佛言はく。我が國に來生せんと欲はば、當に我を念ずること數數せよ。常に當に念を專らにして休息有ること莫るべし。是の如くせば我が國に來生することを得ん」と。九に『鼓音聲經』に云く。「若し四衆有りて、能く正しく彼の佛の名号を受持せば、此の功德を以て、終らんと欲する時に臨みて、阿彌陀佛、即ち大衆と與に此の人の所に往きて、其をして見ることを得しめ、見已りて尋で生る」と。十に『往生論』に「彼の佛の依正の功德を觀念するを以て、往生の業と爲す」と。已上 此の中に『觀經』の下下品・『阿彌陀經』・『鼓音聲經』は、但名号を念ずるを以て往生の業と爲せり。何に況や相好・功德を觀念せんをや。 問。餘の行寧ぞ勸信の文无からんや。答。其の餘の行法は、因みて彼の法の種種の功能を明せるに、其の中に自ら往生の事を説けるなり。直に往生の要を辨じて、多く佛を念ぜよと云へるが如きにはあらず。何に況や佛自ら既に當に我を念ずべしと言へるをや。亦佛の光明は餘の行人を攝取すとは云はざるなり。此等の文分明なり、何ぞ重ねて疑を生ぜんや。 問。諸經の所説は機に隨ひて万品なり、何ぞ管見を以て一文を執ずるや。答。馬鳴菩薩の『大乘起信論』(意)に云く。「復次に衆生の、初めて是の法を學ばんに、其の心怯弱にして信心成就すべきこと難きを懼畏して、意退せんと欲する者は、當に知るべし、如來に勝方便有りて、信心を攝護したまふ。隨ひて專心に念佛する因縁を以て、願に隨ひて他方の佛土に往生することを得るなり。修多羅に若し人專ら西方の阿彌陀佛を念じて、作る所の善業もて廻向して、彼の世界に生ぜんと願求せば、即ち往生することを得と説くが如し」。已上 明かに知んぬ、契經には多く念佛を以て往生の要と爲ることを。若し爾らずば、四依の菩薩は即ち理盡には非ざらん。
[九、往生諸行]
大文第九に往生の諸行を明さば、謂く極樂を求むる者は、必ずしも念佛を專にせず、須く餘行を明かして各の樂欲に任すべし。此に亦二有り。初に別して諸經の文を明かし、次に惣じて諸業を結す。