十方世界の无量の佛國より、其の往生の者も亦復是の如く、甚だ多くして无數なり。我但十方諸佛の名號、及び菩薩・比丘の彼の國に生ぜん者を説かんに、晝夜一劫すとも尚未だ竟ること能はず」と。已上 此の諸の佛土の中に、今娑婆世界に、少善を修して當に往生すべき者有り。我等今幸ひに釋尊の遺法に遇ひて、億劫に時に一び少善往生の流に預れり。應に務めて勤修すべし、時を失ふこと莫れ。 問。若し少善根も亦往生することを得ば、如何ぞ『經』(小經)に「少善根福德の因縁を以て彼の國に生ずることを得べからず」と云へるや。答。此に異解有れども、繁く出すこと能はず。今私に案じて云く。大小は定れること无く、相待して名を得たり。大菩薩に望むれば之を少善と名けんも輪廻の業に望むれば之を名けて大と爲す。是の故に二經の義違害せず。
[一〇、問答料簡 尋常念相]
第四に尋常の念相を明かさば、此に多種有り。大に分ちて四と爲す。一には定業。謂く坐禪入定して佛を觀ずるなり。二には散業。謂く行住坐臥に散心に念佛するなり。三には有相業。謂く或は相好を觀じ或は名號を念じて、偏に穢土を厭ひ專ら淨土を求むるなり。四には无相業。謂く佛を稱念し淨土を欣求すと雖も、而も身土は即ち畢竟空にして、幻の如く夢の如し、躰に即して而も空なり、空なりと雖も而も有なり、有に非ず空に非ずと觀じて、此の无二に通達して、眞に第一義に入る。是を无相業と名く、是最上の三昧なり。故に『雙卷經』(大經卷下)に阿彌陀佛言はく。「諸法の性は、一切空无我なりと通達するも、專ら淨き佛土を求め、必ず是の如き刹を成ぜん」と。又『止觀』の常行三昧の中に三段の文有り、具に上の別行の中に引くが如し。 問。定散の念佛は、倶に往生するや。答。慇重の心もて念ずれば、往生せずといふこと无し。故に感師(群疑論卷五意)念佛の差別を説きて云く。「或は深く或は淺く、定に通じ散に通ず。定は即ち凡夫より十地に終る。善財童子の功德雲比丘の所に於て念佛三昧を請け學びしが如し。此れ即ち甚深の法なり。散は即ち一切衆生の、