若し能く是の如くなれば、稱念する所に隨ひて、若しは一稱、若しは多稱、皆往生することを得」と。感法師(群疑論卷五)云く。「各々是聖敎にして互に往生淨土の法門を説けば、皆淨業を成ず。何に因てか彼を將て是と爲し、此を斥けて非と言はん。但自ら經を解らず、亦乃ち諸の學者を惑はすなり」と。迦才師(淨土論卷中)云く。「此の十念は、現在の時に作すなり。觀經の中の十念は、命終の時に臨みて作すなり」と。已上 意は感師に同じ。 問。『雙卷經』(大經卷下意)に云く。「乃至一念せば往生すること得」と。此と十念と云何が乖角するや。答。感師(群疑論卷七)云く。「極惡業の者は、十を滿して生ずることを得、餘の者は乃至一念するも亦生ず」と。 問。生れてより來諸の惡業を作りて一善をも修せざる者、命終の時に臨み、纔に十聲念じて、何ぞ能く罪を滅して、永く三界を出でて即ち淨土に生ずるや。答。『那先比丘問佛經』(卷下意)に言ふが如し。「時に彌蘭王有りて、羅漢那先比丘に問ひて言く。人世間に在りて、惡を作り百歳に至らんに、死せん時に臨みて念佛せば、死して後に天に生ずとは、我是の説を信ぜず。復言く。一の生命を殺さば、死して即ち泥梨の中に入るとは、我亦信ぜずと。比丘王に問ふ。如し人小石を持ちて水中に置在かば、石は浮ぶや沒むや。王言く。石は沒むなり。那先言く。如し今百丈の大石を持ちて船の上に置在くに、沒むや不や。王言く。沒まず。那先言く。船の中の百丈の大石は、船に因て沒むことを得ざるなり。人本の惡有りと雖も、一時念佛すれば、泥梨に沒まず、便ち天上に生ずといふこと、何ぞ信ぜざらんや。其の小石の沒むは、人の惡を作りて、經法を知らざれば、死して後便ち泥梨に入るが如し。何ぞ信ぜざらんや。王言く。善いかな善いかな。比丘言く。兩人倶に死して、一人は第七の梵天に生れ、一人は罽賓國に生れんに、此の二人は遠近異なりと雖も、死せんときは則ち一時に到らんが如し。一雙の飛鳥有りて、一は高き樹の上に於て止り、一は卑き樹の上に於て止らんに、兩鳥一時に倶に飛ばんときは、其の影倶に到らんが如きのみ。愚人は惡を作れば殃を得ること大にして、智人は惡を作るも殃を得ること小なるが如し。燒けたる鐵地に在らんに、