一人は燒けたりと知り一人は知らずして、兩人倶に取らんに、然も知らざる者は手爛るること大にして、知れる者は小く壞れんが如し。惡を作るも亦爾なり。愚者は自ら悔ゆること能はざるが故に、殃を得ること大にして、智者は惡を作りて不當なりと知るが故に、日々に自ら悔ゆることを爲せば、其の罪小きなり」と。已上 十念に衆の罪を滅し、佛の悲願の船に乘じて、須臾にして往生することを得るも、其の理亦然るべし。又『十疑』に釋して云く。「三種の道理を以て量するに、輕重不定なり。時節の久近・多少には在らず。云何が三と爲る。一には在心、二には在縁、三には在決定なり。在心とは、罪を造る時は、自の虚妄顛倒の心より生ずるも、念佛の心は、善知識に從ひて阿彌陀佛の眞實功德の名號を説くを聞く心より生ず。一は虚一は實なり、豈相比ぶることを得んや。譬へば万年の暗室に日光暫くも至らば、暗頓に除こるが如し、豈久來の暗なればとて、肯て滅せざること有らんや。在縁とは、罪を造る時は、虚妄癡暗心の虚妄の境界を縁ずる顛倒の心より生ずるも、念佛の心は、佛の淸淨眞實の功德名號を聞きて、无上菩提を縁ずる心より生ず。一は眞にして一は僞なり、豈相比ぶること得んや。譬へば人有りて毒の箭に中て、箭は深く毒は磣ましく肌を傷つけ骨に致らんも、一び滅除藥の鼓の聲を聞けば、即ち毒の箭除こるが如し、豈深き毒なるを以て肯て出でざらんや。在決定とは、罪を造る時は、有間心・有後心を以てすなり。佛を念ずる時は、无間心・无後心を以てし、遂に即ち命を捨つるまで善心猛利なり。是を以て即ち生ず。譬へば十圍の索は千夫も制らざれども、童子劔を揮はば須臾に兩段するが如し。又千年の積草も大豆ばかりの火を以て之を焚く時は即ち盡くるが如し。又人有りて一生より已來、十善を修して天に生ずることを得べきが、臨終の時、一念決定の邪見を起さば、即ち阿鼻地獄に墮するが如し。惡業の虚妄なるすら猛利なるを以ての故に、尚能く一生の善業を排ひて、惡道に墮せしむ。豈況や臨終に猛利の心もて念佛する眞實无間の善業をや。无始の惡業を排ふこと能はずして、淨土に生ずることを得ずといはば、