皆五戒・十善の爲に、能く此の報を招く。然るに持ち得る者は甚だ希なり。若し起惡造罪を論せば、何ぞ暴風駚雨に異ならむ。是を以て諸佛の大慈、勸めて淨土に歸せしめたまふ。縱使ひ一形惡を造れども、但能く意を繋けて、專精に常に能く念佛すれば、一切の諸障自然に消除して、定んで往生を得ん。何ぞ思量せずして、都て去く心無きやとなり。」
私に云く。竊に計れば、夫れ立敎の多少、宗に隨ひて不同なり。且く有相宗の如きは、三時敎を立てて而も一代の聖敎を判ず。所謂有・空・中是なり。無相宗の如きは、二藏敎を立てて以て一代の聖敎を判ず。所謂菩薩藏・聲聞藏是なり。華嚴宗の如きは、五敎を立てて而も一切の佛敎を攝す。所謂小乘敎・始敎・終敎・頓敎・圓敎是なり。法華宗の如きは、四敎・五味を立てて以て一切佛敎を攝す。四敎とは、所謂藏・通・別・圓是なり。五味とは、所謂乳・酪・生・熟・醍醐是なり。眞言宗の如きは、二敎を立てて而も一切を攝す。所謂顯敎・密敎是なり。今此の淨土宗は、若し道綽禪師の意に依らば、二門を立てて而も一切を攝す。所謂聖道門・淨土門是なり。 問て曰く。夫れ宗名を立つることは、本華嚴・天台等の八宗・九宗に在り。未だ淨土の家に於て其の宗名を立つることを聞かず。然るに今淨土宗と號する、何の證據か有るや。答て曰く。淨土宗の名、其の證一に非ず。元曉の『遊心安樂道』に云く。「淨土宗の意、本凡夫の爲にして、兼ねては聖人の爲なり」と。又慈恩の『西方要決』に云く。「此の一宗に依る」と。又迦才の『淨土論』(序文)に云く。「此の一宗、竊かに要路爲り」と。其の證此くの如し。疑端に足らず。 但し諸宗の立敎は、正しく今の意に非ず。且く淨土宗に就て、略して二門を明さば、一には聖道門、二には淨土門なり。 初に聖道門といふは、