法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち驕慢および放逸を離る。もし驕慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん、となり。
略抄
『論註』に曰わく、「如実修行相応」と名づく、このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。
已上
また言わく、経の始めに「如是」と称することは、心を彰して能入とす。
已上
次言欲生者則是如来招喚諸有群生之勅命。即以真実信楽為欲生体也、誠是非大小・凡聖・定散・自力之回向、故名不回向也。然微塵界有情、流転煩悩海、漂没生死海、無真実回向心、無清浄回向心。是故如来矜哀一切苦悩群生海、行菩薩行時、三業所修、乃至一念一刹那、回向心為首、得成就大悲心故。以利他真実欲生心回施諸有海。