を説くこと大のごとし、凡を説くこと凡のごとし、聖を説くこと聖のごとし、因を説くこと因のごとし、果を説くこと果のごとし、苦を説くこと苦のごとし、楽を説くこと楽のごとし、遠を説くこと遠のごとし、近を説くこと近のごとし、同を説くこと同のごとし、別を説くこと別のごとし、浄を説くこと浄のごとし、穢を説くこと穢のごとし、一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴歴了然として、心に随いて行を起こして、おのおの益すること同じからず。業果法然としてすべて錯失なし、また称して「是」とす。かるがゆえに「如是」と言う、と。
また云わく、「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来、方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり、と。
(散善義)また云わく、また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。「自利真実」と言うは、また二種あり。一つには真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせん」と想うなり。二つには真実心の中に、自他・凡聖等の善を懃修す。真実心の中の口業に、かの阿弥陀仏および依正二法を讃嘆す。また真実心の中の口業に、三界六道等の自他依正の二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、敬んでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心の中の身業に、合掌し礼敬し、四事等をもって、かの