みな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れ、と。
乃至 仏教多門にして八万四なり。正しく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓めんと欲わば、先ず要行を求めて真門に入れ、と。
(往生礼讃)また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ意を専らにして作さしむれば、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし、と。
已上
元照律師の『弥陀経義疏』に云わく、如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。先ず余善を貶して少善根とす。いわゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懴念・苦行・一切福業、 もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経に依って名号を執持せば、決定して往生せん。すなわち知りぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解を作ししに、人なお遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理り冥符せり。始めて深信を懐く。彼に云わく、「善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・多福徳の因縁なり」と。
已上
孤山
(智円)の『疏』
(弥陀経疏)に云わく、「執持名号」とは、「執」とはいわく執受なり、「持」とはいわく住持なり。信力のゆえに執受、心にあり。念力のゆえに住持して忘れず、と。
已上
『大本』
(大経)に言わく、如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。