もしこの経を聞きて信楽受持すること、難の中の難、これに過ぎて難きはなけん。このゆえに我が法、かくのごとく作しき、かくのごとく説く、かくのごとく教う。当に信順して、法のごとく修行すべし、と。已上
 91『涅槃経』(迦葉品)に言わく、経の中に説くがごとし、「一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。」我が所説のごとし、一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、もし邪見を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。あるいは説かく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに摂尽しぬ、と。
 92また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。この人、不具足の信を成就す、と。乃至 善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。二つには利養のためのゆえに禁戒を受持せん。三つには他属のためのゆえにして