聖典に出でたりや。答う。『大集』の第九に云わく、「たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。何をもってのゆえに。能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに。護持し養育してこの人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得ん」と。
已上経文
この中に八重の無価あり。いわゆる如来像、縁覚、声聞および前三果、得定の凡夫、持戒、破戒、無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正像末の時の無価の宝とするなり。初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これに由って明らかに知りぬ、破戒・無戒、ことごとくこれ真宝なり、と。
問う。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。何がゆえぞ、『涅槃』と『大集経』に、「国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起こり、遂に地獄に生ず」と。破戒なおしかなり、いかに況や無戒をや。しかるに如来一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あるをや。答う。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の破戒を制す、像・末代の比丘にはあらず。その名