同じといえども、時に異あり。時に随いて制許す、これ大聖の旨破なり。世尊において両判の失ましまさず。
問う。もししからば何をもってか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像末の僧にあらずとは。答う。引くところの『大集』の所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当たりて無価とす。かるがゆえに、ただし正法の時の破戒比丘は清浄衆を穢す。かるがゆえに仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆえは、『涅槃』の第三に云わく、「如来いま無上の正法をもって、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付嘱したまえり。
乃至 破戒ありて正法を毀らば、王および大臣・四部の衆、当に苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。
乃至 これ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。」
乃至 かくのごときの制文の法、往往衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり、像末の教にあらず。しかるゆえは、像季末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし、何をか「毀法」と名づけん。戒として破すべきなし、誰をか「破戒」と名づけん。またその時大王、行として護るべきなし、何に由ってか三災を出だし、および戒慧を失せんや。また像末には証果の人なし、いかんぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。かるがゆえに知りぬ、上の所説はみな正法の世に持戒ある時に約して破戒あるがゆえなり。次に像法千年の中に、初めの五百年には、持戒ようやく減じ、破戒ようやく増せん。戒行ありといえども、証果なし。かるがゆえに『涅槃』の七に云わく、「迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊、仏の所説のごときは、四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、我当にいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順することあらば、かくのごとき等の輩、またいかんが知らん」と。仏、迦葉に告げたまわく、