すなわちこれ誠種真実の心なり。かるがゆえに疑心あることなし。「信楽」はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、欲願審験の心なり、慶喜楽の心なり、かるがゆえに疑心あることなし。「欲生」はすなわちこれ願楽の心なり、覚知成興の心なり。かるがゆえに三心みな共に真実にして疑心なし。疑心なきがゆえに三心すなわち一心なり。字訓かくのごとし、これを思択すべし。
 また「三心」と言うは、一つには「至心」、この心すなわちこれ、如来の至徳円修満足真実の心なり。阿弥陀如来、真実の功徳をもって一切に回施したまえり、すなわち名号をもって至心の体とせり。しかるに、十方衆生、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮雑毒にして真実の心なし。ここをもって、如来因中に、菩薩の行を行じたまう時、三業の所修、乃至一念一刹那も、清浄真実の心にあらざることあることなし。如来清浄の真心をもって、諸有の衆生に回向したまえり。
欲願審験之心、慶喜楽之心、故無有疑心。欲生即是願楽之心、覚知成興之心。故三心皆共真実而無疑心。無疑心故三心即一心。字訓如斯、可思択之。
復言三心者、一者至心、斯心即是、如来至徳円修満足真実之心。阿弥陀如来、以真実功徳回施一切、即以名号為至心体。然十方衆生、穢悪汚染無清浄心、虚仮雑毒無真実心。是以、如来因中行菩薩行時、三業所修、乃至一念一刹那、無有非清浄真実心。如来以清浄真心、回向諸有衆生。
 『経』(大経)に言わく、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず、色・声・香・味の法に着せず、