淤泥華というは『経』(維摩経)に説いて言わく、「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿淤泥に蓮華を生ず。」これは凡夫、煩悩の泥の中にありて、仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。これは如来の本弘誓不可思議力をしめす、すなわちこれ、入出二門を他力と名づくとのたまえり。
道綽禅師 玄忠寺
道綽和尚解釈して曰わく、『大集経』に言わく「我が末法に行を起こし道を修せん一切衆、未だ一人も獲得の者あらじと。此にありて心を起こし行を立てん者は、すなわちこれ聖道なり、自力と名づく。当今は末法にしてこれ五濁なり、ただ浄土ありて通入すべし」と。今の時、悪を起こし衆罪を造ること、恒常にして暴風駛雨のごとし。本弘誓願に名を称せしむるは、これ穢濁悪の衆生のためなり、ここをもって諸仏、浄土を勧めたまえり。たとい一生悪を造る者、三信相応せんは、これ一心なり。一心は淳心なれば如実と名づく。もし生まれずは、この処なけん。必ず安楽国に往生を得れば、生死すなわちこれ大涅槃なり、すなわち易行道なり、他力と名づくとのたまえり。