「言南無者」というは、すなわち帰命ともうすみことばなり。帰命はすなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがいて、めしにかなうともうすことばなり。このゆえに「即是帰命」とのたまえり。「亦是発願回向之義」というは、二尊のめしにしたごうて安楽浄土にうまれんとねがうこころなりとのたまえるなり。「言阿弥陀仏者」ともうすは、「即是其行」となり。即是其行は、これすなわち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり。安養浄土の正定の業因なりとのたまえるこころなり。「以斯義故」というは、正定の因なる、この義をもってのゆえにといえる御こころなり。必はかならずという。得はえしむという。往生というは浄土にうまるというなり。かならずというは、自然に往生をえしむとなり。自然というは、はじめてはからわざるこころなり。
また曰わく、「言摂生増上縁者 如無量寿経 四十八願中説 仏言若我成仏 十方衆生願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚 此即是願往生行人 命欲終時 願力摂得往生 故名摂生増上縁」(観念法門)文
「言摂生増上縁者」というは、摂生は十方衆生を誓願におさめとらせたまうともうすこころなり。「如無量寿経 四十八願中説」というは、如来の本願をときたまえる釈迦の御のりなりとしるべしとなり。「若我成仏」ともうすは、法蔵菩薩ちかいたまわく、もしわれ仏をえたらんにと、ときたまう。「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。「願生我国」というは、安楽浄刹にうまれんとねがえとなり。