「称我名字」というは、われ仏をえんに、わがなをとなえられんとなり。「下至十声」というは、名字をとなえられんこと、しも、とこえせんものとなり。下至というは、十声にあまれるものも聞名のものをも往生にもらさずきらわぬことをあらわししめすとなり。「乗我願力」というは、乗はのるべしという、また智なり。智というは、願力にのせたまうとしるべしとなり。願力に乗じて安楽浄刹にうまれんとしるなり。「若不生者 不取正覚」というは、ちかいを信じたる人、もし本願の実報土にうまれずは、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。「此即是願往生行人」というはこれすなわち、往生をねがう人という。「命欲終時」というは、いのちおわらんとせんときという。「願力摂得往生」というは、大願業力摂取して往生をえしむといえるこころなり。すでに尋常のとき、信楽をえたる人というなり。臨終のとき、はじめて信楽決定して摂取にあずかるものにはあらず。ひごろかの心光に摂護せられまいらせたるゆえに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆえに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまわざれば、摂得往生ともうすなり。このゆえに「摂生増上縁」となづくるなり。また、まことに尋常のときより信なからん人は、ひごろの称念の功によりて最後臨終のとき、はじめて善知識のすすめにおうて、信心をえんとき、願力摂して往生をうるものもあるべしとなり。臨終の来迎をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終をこころにかけてなげくなり。
 また曰わく、「言護念増上縁者 乃至 但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余雑業行者 此亦是 現生護念増上縁」(観念法門)