として称名の一行をすすめたまうなりとしるべしとなり。「専修専念之行 自此漸弘 無間無余之勤」というは、一向専修ともうすことは、これよりひろまるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩 加肩入往生之道」というは、然則は、しからしめてこの浄土のならいにて、破戒無戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしとなり。「下智浅才之類 振臂赴浄土之門」というは、無智無才のものは、浄土門におもむくべしとなり。「誠智 無明長夜之大燈炬也 何悲智眼闇」というは、誠知は、まことにしりぬという。弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり。なんぞ智慧のまなこくらしとかなしまんや、とおもえとなり。「生死大海之大船筏也 豈煩業障重」というは、弥陀の願力は生死大海のおおきなるふね、いかだなり。極悪深重のみなりとなげくべからずとのたまえるなり。「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者」というは、師主のおしえをおもうに、弥陀の悲願にひとしとなり。大師聖人の御おしえの恩おもくふかきことをおもいしるべしとなり。「粉骨可報之摧身可謝之」というは、大師聖人の御おしえの恩徳のおもきことをしりて、ほねをこにしても報ずべしとなり。身をくだきても恩徳をむくうべしとなり。よくよくこの和尚のこのおしえを御覧じしるべしと。
和朝愚禿釈の親鸞が『正信偈』の文
「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常摂護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇