「致」とすという。むねとすともうすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを致使凡夫念即生ともうすなり。二河のたとえに、一分二分ゆくというは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて、即生するをむねとすべしとなり。
「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」というは、如来のちかいを信知すともうすこころなり。「信」というは、金剛心なり。「知」というは、しるという、煩悩悪業の衆生をみちびきたまうとしるなり。また知というは、観なり。こころにうかべおもうを、観という。こころにうかべしるを、知というなり。「及称名号」というは、「及」は、およぶというは、かねたるこころなり。「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなうべし」となり。これは多念の証文なり。おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、