名無量なり。くわしくもうすにあたわず。おろおろ、その名をあらわすべし。「涅槃」をば、滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす。誓願の業因にむくいたまえるゆえに、報身如来ともうすなり。報ともうすは、たねにむくいたるなり。この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。「随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり。「故使如来選要法」というは、釈迦如来、