よろずの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに、あたえたまえるなりとしるべしとなり。これを「選」という。ひろくえらぶというなり。「要」は、もっぱらという、もとむという、ちぎるというなり。「法」は、名号なり。「教念弥陀専復専」というは、「教」は、おしうという、のりという。釈尊の教勅なり。「念」は、心におもいさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択本願の名号を一向専修なれと、おしえたまう御ことなり。「専復専」というは、はじめの「専」は、一行を修すべしとなり。「復」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。一行一心をもっぱらなれとなり。「専」は、一ということばなり。もっぱらというは、ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。この一行一心なるひとを摂取してすてたまわざれば、阿弥陀となづけたてまつると、光明寺の和尚は、のたまえり。この一心は、横超の信心なり。横は、よこさまという。超は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海をこえて、仏果にいたるがゆえに、超ともうすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は、摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は、仏にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむ心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。