信心をえてのちによろこぶなり。喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、みにも、こころにも、よろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまえり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には「極難信法」とのたまえり。しかれば『大経』には「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とおしえたまえり。この文のこころは、「もしこの『経』をききて、信ずること、かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」とのたまえる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世にいでて、この難信の法を行じて、無上涅槃にいたると、ときたまう。さてこの智慧の名号を、濁悪の衆生にあたえたまうとのたまえり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとえに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種種の方便をして、無上の信心をひらきおこしたまえるなりと、しるべしとなり。おおよそ過去久遠に、三恒河沙の諸仏のよにいでたまいしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にもうあうことをえたり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしゅうすることなかれとなり。
「具三心者 必生彼国」(観経)というは、三心を具すれば、かならずかのくににうまるとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(往生礼讃)とのたまえり。「具此三心」というは、みつの心を具すべしとなり。「必得往生」というは、「必」は、かならずという。「得」は、うるという。うるというは、往生をうるとなり。「若少一心」というは、「若」は、もしという、ごとしという。「少」は、かくるという。