三不退をもえ、処不退にもかなわんことはしかなり。処々の経釈そのこころなきにあらず。与奪のこころあるべきなり。しかりといえども、いま「即得往生 住不退転」といえる本意には、証得往生現生不退の密益をときあらわすなり。これをもってわが流の極致とするなり。かるがゆえに、聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまえり。かの『文類』の第二にいわく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といえり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に、すなわちのとき、必定にいる、ただよくつねに如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなわちのとき」というは、信心をうるときをさすなり。「必定のいる」というは、正定聚に住し、不退にかなうというこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益をうることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆえなれば、「つねにその名号をとなえてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまえり。またいわく、「十方群生海、この行信に帰命するものを摂取してすてず。かるがゆえに阿弥陀となづけたてまつる。これを他力という。ここをもって龍樹大士は「即時入必定」といい、曇鸞大師は「入正定之聚」といえり。あおいでこれをたのむべし、もっぱらこれを行ずべし」といえり。「龍樹大士は即時入必定という」というは、『十住毘婆沙論』に「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念」といえる文これなり。この文のこころは、「ひとよくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなわちのとき必定にいる。このゆえにわれつねに念ず」となり。「この仏」といえるは阿弥陀仏なり。「われ」といえるは龍樹菩薩なり。さきにいだすところの「憶念弥陀仏本願力」の釈も、これ龍樹の論判によりてのべたまえるなり。「曇鸞大師は入正定之聚といえり」