というは、『論註』の上巻に「但以信仏因縁 願生浄土 乗仏願力 便得往生 彼清浄土 仏力住持即入大乗正定之聚」といえる文これなり。文のこころは「ただ仏を信ずる因縁をもって、浄土にうまれんとねがえば、仏の願力に乗じて、すなわち、かの清浄の土に往生することをう。仏力住持してすなわち大乗正定の聚にいる」となり。これも文の顕説は、浄土にうまれてのち正定聚に住する義をとくににたりといえども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなうことをあらわすなり。なにをもってかしるとならば、この『註論』の釈は、かの『十住毘婆沙論』のこころをもって釈するがゆえに、本論のこころ現身の益なりとみゆるうえは、いまの釈もかれにたがうべからず。聖人ふかくこのこころをえたまいて、信心をうるとき正定のくらいに住する義を、ひき釈したまえり。「すなわち」といえるは、ときをうつさず、念をへだてざる義なり。またおなじき第三に、領解の心中をのべたまうとして、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず」といえり。これすなわち、定聚のかずにいることをば現生の益なりとえて、これをよろこばずと、わがこころをはじしめ、真証のさとりをば生後の果なりとえて、これをちかづくことをたのしまずと、かなしみたまうなり。「定聚」といえるはすなわち不退のくらい、また必定の義なり。「真証のさとり」といえるはこれ滅度なり。また「常楽」ともいう、「法性」ともいうなり。また、おなじき第四に、第十一の願によりて真実の証をあらわすに、「煩悩成就の凡夫・生死罪濁の群萠、往相回向の心行をうれば、すなわちのときに大乗正定聚のかずにいる。正定聚に住するがゆえにかならず滅度にいたる。かならず滅度にいたるは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。