寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり」といえる、すなわちこのこころなり。聖人の解了、常途の所談におなじからず。甚深の教義、よくこれをおもうべし。
 問うていわく、『観経』の下輩の機をいうに、みな臨終の一念・十念によりて往生をうとみえたり。まったく平生往生の義をとかず、いかん。
 こたえていわく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆえに、うまれてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業をつくることをのみしれり。しかるに、臨終のときはじめて善知識にあいて一念・十念の往生をとぐといえり。これすなわち、つみふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらわすなり。もしそれ平生に仏法にあわば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。
 問うていわく、十八の願について因位の願には十念と願じ、願成就の文には一念ととけり。二文の相違いかんこころうべきや。
 こたえていわく、因願の中に「十念」といえるは、まず三福等の諸善に対して十念の往生をとけり。これ易行をあらわすことばなり。しかるに成就の文に「一念」といえるは、易行のなかになお易行をえらびとるこころなり。そのゆえは『観経義』の第二に、「十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」(序分義)といえり。文のこころは「もし