文永九年冬の比、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、同麓より猶西、吉水の北の辺に、遺骨を堀渡して、仏閣をたて影像を安ず。此の時に当りて、聖人相伝の宗義いよいよ興じ遺訓ますます盛りなること、頗る在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して幾千万ということをしらず。其の稟教を重くして、彼の報謝を抽ずる輩、緇素・老少、面々あゆみを運びて、年々廟堂に詣す。凡そ聖人在生の間、奇特これおおしといえども、羅縷に遑あらず。しかしながら、これを略するところなり。
(絵)
右縁起画図之志、偏為知恩報徳、不為戯論狂言、剰又染紫毫拾翰林、其体尤拙、厥詞是苟、附冥附顕、有痛有耻、雖然、只馮後見賢者之取捨、無顧当時愚案之䚹謬而已、
于時、永仁第三暦、応鐘中旬第二天至晡時、終草書之篇訖、執筆法印宗昭
画工法眼浄賀号康楽寺
暦応二歳 己卯 四月廿四日以或本俄奉書写之、先年愚草之後一本所持之処、世上闘乱之間炎上之刻焼失不知行方、而今不慮得荒本註留之者也耳。 桑門宗昭
康永二載 癸未 十一月二日染筆訖 釈宗昭
画工大法師宗舜康楽寺弟子