後念即生の素懐を遂げたまいき。ああ、禅容隠れて、何にか在す、給仕を数十箇回の月に隔つ。遺訓絶えて幾の程ぞ、旧跡を一百余年の霜に慕う。彼の遺恩を重くする門葉、其の身命を軽くする後昆、毎年を論ぜず、遼絶を遠しとせず、境関千里の雲を凌ぎて、奥州より歩みを運び、隴道万程の日を送りて諸国より群詣す。廟堂に跪ずきて涙を拭い、遺骨を拝して腸を断つ。入滅、年遥かなりといえども、往詣挙りて未だ絶えず。哀なるかな、恩顔は寂滅の煙に化したもうといえども、真影を眼前に留めたまう。悲しきかなや、徳音は無常の風に隔るといえども、実語を耳底に胎す。選び置きたまう所の書籍、万人之を披きて多く西方の真門に入り、弘通したまう所の教行、遺弟之を勧めて広く片域の群萠を利す。おおよそその一流の繁昌は、殆在世に超過せり。倩、平生の化導を案じ、閑に当時の得益を憶うに、祖師聖人は直也人に匪、すなわち是権化の再誕なり。已に弥陀如来の応現と称し、また曇鸞和尚の後身とも号す。皆是夢中に告を得、幻の前に瑞を視し故なり。況や自ら名のりて親鸞と曰う、測り知りぬ、曇鸞の化現なりということを。しかればすなわち聖人、修習念仏の故に、往生極楽の故に、宿命通をもちて知恩報徳の志を鑑み、方便力をもち有縁無縁の機を導きたまわん。願わくは師弟芳契の宿因によりて、必ず最初引接の利益を垂れたまえ。よりて各他力に帰して仏号を唱えよ。頌に曰わく、
 「身心毛孔皆得悟 菩薩聖衆皆充満
  自化神通入彼会 憶本娑婆知識恩」(般舟讃)
   念仏