とりて礼にせよ」と、おおせそうらいき。

17 一 仰せに、「ときどき懈怠することあるとも、往生すまじきか、とうたがいなげくことあるものあるべし。しかれども、はや、弥陀如来をひとたびたのみまいらせて、往生決定ののちなれば、懈怠おおうなることのあさましや。かかる、懈怠おおうなるものなれども、御たすけは治定なり。ありがたや、ありがたやと、よろこぶこころを、他力大行の催促なりともうす」と、おおせられそうろうなり。

18 一 「御たすけありたることのありがたさよと、念仏もうすべく候うや。また、御たすけあろうずる事のありがたさよと、念仏もうすべく候うや」と、もうしあげそうろうとき、仰せに、「いずれもよし。ただし、正定聚のかたは、御たすけありたるとよろこぶこころ、滅度のさとりのかたは、御たすけあろうずることのありがたさよともうすこころなり。いずれも、仏になることをよろこぶこころ、よし」と、仰せそうろうなり。

19 一 明応五年、正月二十三日に、富田殿より御上洛ありて、仰せに、「当年より、いよいよ、信心なきひとには、御あいあるまじき」と、かたく仰せ候うなり。安心のとおり、いよいよ仰せきかせられて、また、誓願寺に能をさせられけり。二月十七日に、やがて、富田へ御下向ありて、三月二十七日に、さかい殿より御上洛にて、二十八日に、仰せられそうろう。「自信教人信」(往生礼讃)のこころを仰せきかせられんがために、上り下り、苦労なれども、御出あるところは、信をとり、よろこぶよし、もうすほどに、うれしくて、またのぼりたり」と、おおせそうらいき。

20 一 四月九日に、仰せられ候う。「安心をとりて、ものをいわば、よし。用ないところをば、いうまじきなり。