本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめて、まったく余行をまじえざるなり。他の経・呪をも、たもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなえ、ひとえに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修というは、念仏をむねとすといえども、また余の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。このふたつの中には、専修をすぐれたりとす。そのゆえは、すでにひとえに極楽をねがう。かの土の教主を念ぜんほか、なにのゆえか他事をまじえん。電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わずかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。あに、ゆるく諸行をかねんや。諸仏菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし、大小経典の義理は、百法明門のゆうべをまつべし。一土をねがい一仏を念ずるほかは、その用あるべからずというなり。念仏の門にいりながら、なお余行をかねたる人は、そのこころをたずぬるに、おのおの本業を執してすてがたくおもうなり。あるいは、一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがわんとおもうこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもうなり。ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なお、本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。これによりて、善導和尚ののたまわく、「専をすて雑におもむくものは、千の中に一人もうまれず、もし専修のものは、百に百ながらうまれ、千に千ながらうまる」(往生礼讃意)といえり。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃)
といえり。随縁の雑善ときらえるは、本業を執するこころなり。たとえば、みやづかえをせんに、主君にちかづき、