念仏をもうすべし。なにのいとまにか、余仏を念ぜん。ふかくこれをおもうべし、みだりがわしくうたがうべからず。つぎに、念仏をもうさんには、三心を具すべし。ただ名号をとなうることは、たれの人か一念・十念の功をそなえざる。しかはあれども、往生するものはきわめてまれなり。これすなわち、三心を具せざるによりてなり。『観無量寿経』にいわく、「具三心者 必生彼国」といえり。善導の釈にいわく、「具此三心必得往生也 若少一心即不得生」(往生礼讃)といえり。三心の中に一心かけぬれば、うまるることをえずという。よの中に弥陀の名号となうる人おおけれども、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆえなりとこころうべし。その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。阿弥陀仏の、むかし菩薩の行をたて、浄土をもうけたまいしも、ひとえにまことのこころをおこしたまいき。これによりて、かのくににうまれんとおもわんも、またまことのこころをおこすべし。その真実心というは、不真実のこころをすて、真実のこころをあらわすべし。まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。これを虚仮のこころとなづけて、真実心にたがえる相とす。これをひるがえして、真実心をばこころえつべし。このこころをあしくこころえたる人は、よろずのこと、ありのままならずは、虚仮になりなんずとて、みにとりて、はばかるべく、はじがましきことをも、人にあらわししらせて、かえりて放逸無慚のとがをまねかんとす。