安心決定鈔 末

 『往生論』に「如来浄花衆 正覚花化生」といえり。他力の大信心をえたるひとを浄華の衆とはいうなり。これはおなじく正覚のはなより生ずるなり。正覚花というは衆生の往生をかけものにして、「もし生ぜずは、正覚とらじ」とちかいたまいし法蔵菩薩の、十方衆生の願行成就せしとき、機法一体の正覚成じたまえる慈悲の御こころのあらわれたまえる心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観」(観経)には、「除苦悩法」ととき、下々品には「五濁の衆生を来迎する蓮華」ととくなり。仏心を蓮華とたとうることは、凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。なにとして仏心の蓮華よりは生ずるぞというに、曇鸞この文を、「同一に念仏して、別の道なきがゆえに」(論註)と釈したまえり。「とおく通ずるに、四海みな兄弟なり」(同)。善悪、機ごとに、九品、くらいかわれども、ともに他力の願行をたのみ、おなじく正覚の体に帰することはかわらざるゆえに、「同一念仏して別の道なきがゆえに」といえり。またさきに往生するひとも、他力の願行に帰して往生し、のちに往生するひとも正覚の一念に帰して往生す。心蓮華のうちにいたるゆえに、「四海みな兄弟なり」というなり。「仏身をみるものは、仏心をみたてまつる。仏心というは、大慈悲これなり」(観経)。仏心はわれらを愍念したまうこと骨髄にとおりて、そみつきたまえり。たとえば、火のすみに、おこりつきたるがごとし。はなたんとするとも、はなるべからず。摂取の心光、われらをてらして、身より髄にとおる。