心は三毒煩悩の心までも仏の功徳のそみつかぬところはなし。機法もとより一体なるところを、南無阿弥陀仏というなり。この信心おこりぬるうえは、口業には、たといときどき念仏すとも、常念仏の衆生にてあるべきなり。三縁のなかに、「くちにつねに、身につねに」(定善義)と釈する、このこころなり。仏の三業の功徳を信ずるゆえに、衆生の三業、如来の仏智と一体にして、仏の長時修の功徳、衆生の身口意にあらわるるところなり。また、唐朝に傳大士とて、ゆゆしく大乗をもさとり、外典にも達して、とうときひとおわしき。そのことばにいわく、「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす」といえり。これは聖道の通法門の真如の理仏をさして、仏というといえども、修得のかたよりおもえば、すこしもたがうまじきなり。摂取の心光に照護せられたてまつらば、行者もまたかくのごとし。あさなあさな、報仏の功徳をもちながらおき、ゆうなゆうな、弥陀の仏智とともにふす。うとからん仏の功徳は、機にとおければ、いかがはせん。真如法性の理はちかけれども、さとりなき機には、ちからおよばず、わがちからも、さとりもいらぬ他力の願行を、ひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転の故郷にかえらんこと、かえすがえすも、かなしかるべきことなり。釈尊も、いかばかりか、往来娑婆八千遍の、甲斐なきことをあわれみ、弥陀も、いかばかりか、難化能化のしるしなきことを、かなしみたまうらん。もし一人なりとも、かかる不思議の願行を信ずることあらば、まことに仏恩を報ずるなるべし。かるがゆえに『安楽集』には、「すでに他力の乗ずべきみちあり。つたなく自力にかかわりていたずらに火宅にあらんことをおもわざれ」といえり。このことまことなるかな。自力の、ひがおもいをあらためて、他力を信ずるところを、「ゆめゆめ、まよいをひる