經に傍へて願生の偈を作れり。復長行を造て重て梵言を釋す。「優婆提舍」は此の間に正名あひ譯せる无し、若し一隅を擧て名て論と爲すべし。正名譯せること无き所以は、此の間に本と佛ましまさざるを以の故へなり。此の間の書の如きは、孔子に就而て「經」と稱す、餘人の制作皆名て子と爲す。國史・國紀の徒各別の躰例然なり。佛の所説十二部經の中に論議經有り、優婆提舍と名く。若し復佛の諸の弟子、佛の經敎を解て佛義と相應は、佛また許して優婆提舍と名く、佛法の相に入るを以の故に。此の間には論と云ふ、直に是論議ならくのみと、あに正しく彼の名を譯することを得むや。また女人を子に於て母と稱し、兄に於て妹と云が如し。是の如き等の事皆義に隨て名別なり。若しただ女の名を以て汎く母妹を談ず女の大躰を失せず、豈に尊卑の義を含むや。此の云ふ所の論また是の如し、是を以て仍 因而音 梵音を存して優婆提舍と曰ふと。
此の論の始終に凡そ二重有り。一には是れ捴説分、二には是解義分なり。捴説分は前の五言の偈盡るまで是なり。解義分は論曰已下長行盡るまで是なり。二重爲る所以は二義有り。偈は誦經を以て捴攝と爲るが故に、論は釋偈を以て解義爲るが故へなり。
「无量壽」、言ふこころは无量壽如來、壽命長遠にして思量すべからざるなり。經とは常なり、言ふこころは安樂國土の佛及び菩薩淸淨莊嚴功德・國土淸淨莊嚴功德、能く衆生のために大饒益を作す。常に世に行はるべきが故に名て經と曰ふ。「優婆提舍」は是れ佛の論議經の名なり。「願」は是れ欲樂の義なり、「生」は天親菩薩彼の安樂淨土に生と願ず、