必ず生有るべし。此の人更りて三界に生ぜず。三界の外に淨土を除きて更生處无し。是を以て唯淨土に生ずべし。「聲聞」と言うが如きは是れ他方の聲聞來生せるを、本の名に仍るが故に稱して聲聞と爲す。天帝釋の人中に生るる時、憍尸迦を姓とせり、後に天主と爲ると雖も佛人をして其の由來を知らしめむと欲して、帝釋と語らひたまふ時、猶憍尸迦と稱するが如し。其れ此の類なり。又此『論』には但「二乘の種生ぜず」と言たまへり。謂く安樂國に二乘の種子を生ぜずとなり。亦何ぞ二乘の來生を妨げむや。譬ば橘栽えて江北に生ぜざれども、河洛の菓肆に亦橘有りと見るが如し。又鸚鵡は壟西に渡らざれども、趙魏が架桁に亦鸚鵡有りと言ふ。此の二の物、但其の種を彼に渡さずと言ふ、聲聞の有ること亦是の如し。是の如きの解を作ば、經論即會しぬ。 問曰。名は以て事を召く。事有れば名有り。安樂國には既に二乘・女人・根缺の事无し。亦何ぞ須く復此の三の名无しと言ふべけむや。答曰。軟心の菩薩の甚だ勇猛ならざるを譏りて聲聞と言ふが如し。人の諂曲なると或は復
弱なるを譏りて女人と言ふが如し。又眼明なりと雖も事を識らざるを譏りて盲人と言ふが如し。又耳聽なりと雖も義を聽て解らざるを譏りて聾人と言ふが如し。又舌語ふと雖も訥口蹇吃なるを譏りて瘂人と言ふが如し。是の如き等根有りて具足せりと雖も譏嫌の名有り。是の故に須く乃至名无しと言ふべきこと明らかなり。淨土には是の如き等の與奪の名无し。 問曰。法藏菩薩の本願及び龍樹菩薩の所讃を尋ぬるに、皆彼の國に聲聞衆多なるを以て奇なりと爲すに似たり。此れ何の義か有るや。答曰。聲聞は實際を以て證と爲す。計るに更に能く佛道の根芽を生ずべからず。佛、本願の不可思議の神力を以て攝して彼こに生ぜしめ、必ず當に復神力を以て其の无上道心を生ずべし。譬へば鴆鳥の水に入れば魚蜯咸く死す、犀牛之に觸れば死せる者の皆活るが如し。