此の如く生ずべからざるをして生ず、所以に奇とすべし。然に五不思議の中に佛法最も不可思議なり。佛能く聲聞をして復无上道心を生ぜしむ、眞に不可思議の至なり。
衆生所願樂 一切能滿足
此の二句は莊嚴一切所求滿足功德成就と名く。佛本何が故ぞ此の願を興したまふと。有る國土を見そなはすに、或は名高く位重くして潜處するに由无し、或は人凡性鄙しくして出と悕ふに路なし、或は修短繋業制するに己れにあらず、阿私陀仙人の如き類ひなり。是の如き等の業風の爲に吹かれて自在を得ざること有り。是の故に願じて言はく。我が國土を各所求に稱ふて情願を滿足せしむと。是の故に「衆生所願樂一切能滿足」と言たまへり。
是故願生彼 阿彌陀佛國
此の二句は上の十七種莊嚴國土成就を觀察することを結成す。願生の所以に器世間淸淨を釋すること之れ上に訖りぬ。

次に衆生世間淸淨を觀ず、此の門の中に分て二の別と爲す。一には阿彌陀如來の莊嚴功德を觀察す。二には彼の諸の菩薩の莊嚴功德を觀察す。如來の莊嚴功德を觀察する中に八種有り、文に至て當に目づくべし。 問曰。有る論師汎く衆生の名義を解するに、其れ三有に輪轉して衆多の生死を受るを以ての故に衆生と名く。今佛・菩薩を名けて衆生と爲する、是の義いかんぞや。答曰。『經』(北本涅槃經卷三三・南本涅槃經卷卷三一意)に言たまはく。「一法に无量の名有り、一名に无量の義有り」。衆多の生死を受くるを以ての故に名けて衆生と為るが如きは、