幢の上の寶幔夜摩天宮の如し、五百億の微妙の寶珠、以て映餝を爲す。一一の寶珠に八万四千の光あり、一一の光八万四千の異種の金色を作す。一一の金光安樂寶土に遍ず、處處に變化して各異相を作す。或は金剛臺と爲り、或は眞珠網と爲り、或は雜花雲のごとくに作る。十方面に於て意に隨て變現し、化して佛事を作す」。是の如き等の事數量に出過せり。是の故に「无量大寶王微妙淨華臺」と言たまへり。
相好光一尋 色像超群生
此の二句は莊嚴身業功德成就と名く。佛本何が故ぞ此の如き身業を莊嚴したまふと。有る佛身を見そなはすに、一丈の光明を受けたり、人の身光に於て甚だ超絶せず、轉輪王の相の如し。抑そも亦大きに提婆達多の減ずる所に同じ唯一なり。阿闍世王をして茲を以て亂を懷かしむることを致す。
闍耶等をして敢へて蟷螂の如くす、或は此くの如きの類なり。是の故に此の如き身業を莊嚴せり。此の間の詁訓を案ずるに六尺を尋と曰ふ。『觀无量壽經』に言たまへるが如し。「阿彌陀如來の身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。 佛の圓光は百億の三千大千世界の如し」と。譯者、尋を以てして言へり、何ぞ其れ晦
禾代反 かむや。里舍の間の人、縱橫長短を簡ばず、咸く橫に兩手の臂を舒べて尋と爲すと謂へり。若し譯者或は此の類を取りて用て阿彌陀如來の舒べたまはむ臂に准じて言はむと爲するが故に、一尋と稱せば圓光亦六十万億那由他恒河沙由旬に徑るべし。是の故に「相好光一尋色像超群生」と言たまへり。 問曰。『觀无量壽經』に言たまはく。「諸佛如來は是れ法界身なり、一切衆生の心想の中に入る。是の故に汝等心に佛を想ふ時、是の心即ち是三十二相・八十隨形好なり。