此は是れ小乘家の三界の中の衆生の名義を釋するなり、大乘家の衆生の名義には非ざるなり。大乘家に言ふ所の衆生は、『不增不減經』に言たまふが如し。「衆生と言ふは即是不生不滅の義なり」。何を以の故に、若し生有らば生じ已て復生に无窮の過有るが故に、不生にして生ずる過あるが故なり。この故に无生なり。若し生有らば滅有るべし。既に生无し何ぞ滅有らむことを得む。是の故に无生无滅は是れ衆生の義なり。『經』(維摩經卷上意)の中に「五受陰、通達するに空にして所有无し是れ苦の義なり」と言ふが如し。斯れ其の類なり。
无量大寶王 微妙淨花臺
此の二句は莊嚴座功德成就と名く。佛本何が故ぞ此の座を莊嚴したまふと。有る菩薩を見そなはすに、末後の身に於て草を敷きて坐して阿耨多羅三藐三菩提を成じて、人天見る者の增上の信・增上の恭敬・增上の愛樂・增上の修行を生ぜず。是の故に願じての言まはく。我れ成佛せむ時无量の大寶王微妙の淨花臺を使しめて以て佛の座と爲むと。「无量」は『觀无量壽經』に言ふが如し。「七寶の地の上に大寶蓮花王の座有り。蓮花の一一の葉百寶色を作す。八万四千の脈、天の畫のごとし。脈に八万四千の光、花葉の小さき者は縱廣二百五十由旬なり。是の如くの花に八万四千の葉有り。一一の葉の間に百億の摩尼珠王有り、以て映餝と爲す。一一の摩尼千の光明を放つ、其の光は盖の如し、七寶合成して遍く地の上に覆ふ。釋迦毗楞伽寶、以て其の臺と爲す。この蓮花臺は八万の金剛甄叔迦寶・梵摩尼寶・妙眞珠網、以て嚴餝と爲る。其の臺の上に於て、自然にして四柱の寶幢有り。一一の寶幢八万四千億の須彌山の如し。