若し一切衆生の所夢皆息めば、世間豈盡きざらんや。答て曰く。説きて世間と爲すも、若し夢息むときは則ち夢者无し、若し夢者无くば亦渡者をも説かず、是の如く世間は即ち出世間と名くと知らば无量の衆生を度すと雖も則ち顛倒に墮せず。
四には疑はく、佛は一切種智を得たまはず、何を以ての故に、若し遍く諸法を知りたまはば、諸法有邊に墮するが故に、若し遍く知ること能はざれば則ち一切種智に非ざるが故にと。此の疑を對治するが故に「无等无倫最上勝智」と言ふ。无等无倫最上勝智とは、凡夫の智は虚妄なり、佛の智は如實なり、虚と實と玄かに殊なり、理等しきことを得ること无し、故に无等と言ふ。聲聞辟支佛は知る所有らんと欲すれば入定して方に知る、出定しては知らず、又知るも限有り。佛は如實三昧を得、常に深定に在まして遍く万法の二と无二とを照らしたまふ、深浅倫に非ず、故に无倫と言ふ。八地已上の菩薩は報生三昧を得て用て出入无しと雖も、而も習氣微熏三昧極めて明淨ならず、佛智に形待するに猶有上と爲す。佛は智斷具足して法の如くにして照したまふ、法无量なるが故に照も亦无量なり、譬へば函大なれば盖亦大なるが如し。此の三句亦展轉して相成ずべし佛智は與に等しき者无きを以ての故に、所以に无倫なり、无倫なるを以ての故に最上勝なり、亦最上勝なるが故に无等なり、无等なるが故に无倫なりといふべし。但无等と言ふに便ち足んぬ、復何を以てか下二句を須ふるとならば、須陀洹智の如きは阿羅漢と等しからざれども、而も是其の類なり、初地より十地に至るも亦是の如し。智は等しからずと雖も其倫ならざるに非ず、何を以ての故に、最上に非ざるが故に、汝知の有邊と无邊とを以て難と爲して、佛は一切智に非ずと疑はば、是の事然ならず。
問て曰く。下輩生の中に十念相續して便ち往生を得と云へり、云何なるをか名けて十念相續と爲すや。答て曰く。譬へば人有りて空曠の逈なる處にして怨賊に値遇するに、刃を拔き勇を奮ひて直に來りて取らんと欲す、其人到り走りて一河を渡るべきを視る、若し河を渡ることを得ば、首領全かるべし。爾時河を渡る方便を念ず、我岸に至れば衣を着して渡るとや爲ん、衣を脱して渡るとや爲ん。若し衣納を着せば恐らくは過ぐることを得ざらん、若し衣納を脱がんには恐らくは暇を得ること無けんと。但此の念のみ有りて更に他縁無し、一ら何にして當に河を渡るべしと念はん、即ち是一念なり。是の如く十念餘心を雑へざるを名けて十念相續と爲るが如し。行者も亦爾なり、阿彌陀佛を念ずるに、