前の者は是兼なり。何の意ぞ然るとなれば、寔に衆生聖を去ること遙遠にして、機解浮淺暗鈍なるに由るが故なり。是を以て韋提大士自ら爲及末世の五濁の衆生の輪廻多劫にして徒に痛燒を受くるを哀愍するが故に、能く假に苦の縁に遇ひて出路を諮開すること豁然たり。大聖慈を加へ極樂に勸歸せしむ。若し斯に於て進趣せんと欲せば勝果階ひ難し。唯淨土の一門のみ有りて情を以て悕ひて趣入すべし。若し衆典を披き尋ねんと欲せば勸むる處彌々多し。遂に以て眞言を採り集めて往益を助脩せしむ。何となれば前に生れん者は後を導き、後に去かん者は前を訪へ、連續無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無邊の生死海を盡さんが爲の故なり。
[第一大門 二、説聽方軌]
第二に諸部の大乘に據りて説聽の方軌を明さば、中に於て六有り。第一に『大集經』(卷一一意)に云く。「説法の者に於ては醫王の想を作せ、拔苦の想を作せ。所説の法をば甘露の想を作せ、醍醐の想を作せ。其れ聽法の者をば增長勝解の想を作せ、愈病の想を作せ。若し能く是の如き説者・聽者は、皆佛法を紹隆するに堪へたり、常に佛前に生ぜん」と。
第二に『大智度論』(卷一)に云く。「聽者は端視して渇飮の如くせよ。一心に語議の中に入りて法を聞きて踊躍し心に悲喜す。是の如きの人に應に爲に説くべし」と。
第三に彼の『論』(大智度論卷二八意)に又云く。「二種の人有りて福を得ること無量無邊なり。何等をか二と爲す。一には樂説法の人、二には樂聽法の人なり。是の故に阿難佛に白して言さく。舍利弗・目連何を以てか得る所の智慧・神通、聖弟子の中に於て最も殊勝と爲るや。佛阿難に告げたまはく。此の二人は因中の時に於て法の因縁の爲に千里を難しとせず。是の故に今日最も殊勝爲り」と。