第四に『無量壽大經』(卷下)に云く。「若し人善本無ければ此の經を聞くことを得ず。淸淨に戒を有てる者乃し正法を聞くことを獲ん」と。
第五(大經卷下意)に云く。「曾更世尊を見しもの則ち能く此の事を信ず。億の如來に奉事して樂みて是の如きの敎を聞かん」と。
第六に『無量淸淨覺經』(卷四意)に云く。「善男子・善女人淨土の法門を説くを聞きて心に悲喜を生じて身の毛爲に豎ちて拔け出づるが如くなる者は、當に知るべし、此の人は過去宿命に已に佛道を作せるなり。若し復人有りて淨土の法門を開くを聞きて都て信を生ぜざる者は、當に知るべし、此の人は始めて三惡道より來りて殃咎未だ盡きず、此が爲に信向無きのみ。我説く、此の人は未だ解脱を得べからずなり」是の故に『無量壽大經』(卷下)に云く。「憍慢と弊と懈怠とは以て此の法を信ずること難し」と。
[第一大門 三、發心久近]
第三に大乘の聖敎に據て衆生の發心の久近、供佛の多少を明さば、『涅槃經』(北本卷六・南本卷六意)に云ふが如し。「佛迦葉菩薩に告げたまはく。若し衆生有りて煕連半恆河沙等の諸佛の所に於て菩提心を發して、然して後に乃し能く惡世の中に於て是の大乘經典を聞きて誹謗を生ぜず。若し一恆河沙等の佛の所に於て菩提心を發すこと有りて、然して後に乃し能く惡世の中に於て經を聞きて誹謗を起さず、深く愛樂を生ぜん。若し二恆河沙等の佛の所に於て菩提心を發すこと有りて、然して後に乃し能く惡世の中に於て是の法を謗せず、正解し信樂し受持し讀誦せん。若し三恆河沙等の佛の所に於て菩提心を發すこと有りて、然して後に乃し能く惡世の中に於て是の法を謗せず、經卷を書寫す。人の爲に説くと雖も未だ深義を解せず」と。何を以ての故に此の如きの敎量を須ふるとならば、今日坐下にして經を聞く者曾已に發心して多佛を供養せることを彰さんが爲なり。又大乘經の威力不可思議なることを顯すなり。是の故に『經』(北本涅槃經卷六・南本涅槃經卷六意)に云く。「若し衆生有りて是の經典を聞かば、億百千劫にも惡道に墮せず。何を以ての故に、