第六に淨土に生ることを求むるは非なり、是小乘なりといふを破すとは、 問て曰く。或は人有りて言く、淨土に生ぜんことを求むるは便ち是小乘なり。何ぞ須く之を修すべきや。答て曰く。此亦然らず、何を以ての故に、但小乘の敎には一向に淨土に生ずることを明かさざるが故なり。
第七に兜率に生ぜんと願ふと淨土に歸するを勸むるとを會通すとは、 問て曰く。或は人有りて言く、兜率に生ぜんことを願ひて西に歸することを願はずと、是の事云何。答て曰く。此の義類せず。少分は同じきに似たれども體に據らば大に別なり。其の四種有り。何となれば一には彌勒世尊其の天衆の爲に不退の法輪を轉ず。法を聞きて信を生ずる者は益を獲、名けて信同と爲す。樂に著して信無き者其の數一に非ず。又來兜率に生ずと雖も位是退處なり。是の故に『經』(法華經卷二)に云く。「三界は安きこと無し猶し火宅の如し」と。二には兜率に往生して正に壽命を得ること四千歳なり。命終の後退落を免れず。三には兜率天上には水鳥樹林和鳴哀雅なること有りと雖も、但諸天の生樂の與に縁爲り。五欲に順ひて聖道を資けず。若し彌陀淨國に向はば一び生ずることを得れば悉く是阿毗跋致なり。更に退人の其と雜居するもの無し。又復位は是無漏にして三界に出過して復輪廻せず、其の壽命を論ずれば即ち佛と齊し。算數の能く知るところに非ず。其れ水鳥樹林有りて皆能く法を説き人をして悟解し無生を證會せしむ。四には『大經』に據るに且く一種の音樂を以て比挍すれば、經の『讚』(讚彌陀偈)に言く。「世の帝王より六天に至るまで、音樂轉た妙にして八重有り、展轉して前に勝ること億万倍、寶樹の音の麗しきこと倍た亦然なり、復自然の妙なる伎樂有り、法音淸和にして心神を悅ばしめ、哀婉雅亮にして十方に超ゆ、是の故に淸淨勳を稽首したてまつる」と。
第八に十方淨土に生ぜんと願ずるは西方に歸するに如かずといふことを挍量せば、 問て曰く。或は人有りて言く、十方淨國に生ぜんと願じて西方に歸せんことを願はず。