何を用てか此の深淺の理を諍はんや。」
第四に穢土に生ぜんことを願ひて淨土に生ぜんことを願はざるを破すとは、 問て曰く。或は人有りて言く、穢國に生れて衆生を敎化することを願ひて淨土に往生することを願はずと、是の事云何。答て曰く。此の人亦一の徒有り。何となれば若し身不退に居して已去雜惡の衆生を化せんが爲の故に能く染に處れども染せられず惡に逢へども變ぜず、鵝鴨の水に入れども水溼すこと能はざるが如し。此の如きの人等能く穢に處して苦を拔くに堪へたり。若し是實の凡夫ならば、唯恐らくは自行未だ立たず苦に逢へば即ち變じ、彼を濟はんと欲せば相與倶に沒しなん。鷄を逼めて水に入らしむるが如似し。豈能く溼はざらんや。是の故に『智度論』(卷二九意)に云く。「若し凡夫發心して即ち穢土に在りて衆生を拔濟せんと願ふをば聖意許さず」と。何の意か然るとならば、龍樹菩薩釋して(智度論卷二九意)云く。「譬へば四十里の冰に如し一人有りて一升の熱湯を以て之に投ずれば、當時は少しく減ずるに似如たれども若し夜を經て明に至れば乃ち餘の者よりも高きが如し。凡夫此に在りて發心して苦を救ふも亦復是くの如し。貪・瞋の境界違順多きを以ての故に、自ら煩惱を起して返て惡道に墮するが故なり」と。
第五に若し淨土に生ずれば多く喜びて樂に著すといふを破すとは、 問て曰く。或は人有りて言く、淨土の中には唯樂事のみ有り、多く喜びて樂に著して修道を妨癈す。何ぞ往生を願ず須きや。答て曰く。既に淨土と云ふ衆の穢有ること無し。若し樂に著すと言はば便ち是貪愛の煩惱なり。何ぞ名けて淨と爲ん。是の故に『大經』(卷下意)に云く。「彼の國の人天は往來進止情に繋くる所無し」と。又(大經卷上意)四十八願に云く。「十方の人天我國に來至して、若し想念を起して身を貪計せば、正覺を取らじ」と。『大經』(卷下意)に又云く。「彼の國の人天適莫する所無し」と。何ぞ著樂の理有らんや。