樹の先より傾けるが倒るるとき必ず曲れるに隨ふが如しと。若し刀風一たび至らば百苦身に湊る、若し習先より在らずば懷念何ぞ辨ずべけんや。各々宜しく同志三五預め言要を結び、命終の時に臨みて迭相に開曉して爲に彌陀の名號を稱し、安樂國に生ぜんと願じ、聲聲相次で十念を成ぜしむべし。譬へば蠟印を泥に印するに印壞して文成ずるが如し。此に命斷つ時は即ち是安樂國に生ずるの時なり。一び正定聚に入れば更に何の憂ふる所かあらん、各々宜しく此の大利を量るべし。何ぞ預め剋念せざらんや。 また問て曰く。諸の大乘經論に皆「一切衆生は畢竟無生なること猶し虚空の如し」と言へり。云何ぞ天親・龍樹菩薩皆往生を願ずるや。答て曰く。衆生は畢竟無生にして虚空の如しと言ふは、二種の義有り。一には凡夫人の所見の如きは實の衆生實の生死等なり。若し菩薩の往生に據らば畢竟じて虚空の如く兔角の如し。二には今生と言ふは是因縁生なり。因縁生の故に即ち是假名の生なり。假名の生なるが故に即ち是無生にして、大道理に違せざるなり。凡夫の實の衆生實の生死有りと謂ふが如きには非ざるなり。 又問て曰く。夫れ生は有の本爲り、乃ち是衆累の元なり。若し此の過を知りて生を捨てて無生を求むれば脱るる期有るべし。今既に淨土に生ぜんことを勸む、即ち是生を棄てて生を求む、生何ぞ盡くべけんや。答て曰く。然るに彼の淨土は乃ち是阿彌陀如來の淸淨本願無生の生なり。三有衆生の愛染虚妄の執着の生の如きには非ず。何を以ての故に。夫れ法性は淸淨にして畢竟無生なり。而して生と言ふは得生者の情なるのみ。 又問て曰く。上に言ふ所の如く生・無生を知るは上品生の者に當れり。若し爾らば下品生の人十念に乘じて往生する者は豈實生を取るに非ずや。若し實の生ならば即ち二疑に墮す。一には恐らくは往生を得ず。二には謂く此の相善無生の與に因と爲ること能はず。答て曰く。釋するに三番有り。一には譬へば淨摩尼珠之を濁水に置けば珠の威力を以て水即ち澂淸なるが如し。