若し人無量生死の罪濁に有りと雖も、若し阿彌陀如來の至極無生の淸淨寶珠の名號を聞きて之を濁心に投ずれば、念念の中に罪滅し心淨くして即便ち往生す。二には淨摩尼珠を玄黄の帛を以て裹みて之を水に投ずるに、水即ち玄黄にして一に物の色の如くなるが如し。彼の淸淨佛土に阿彌陀如來無上寶珠の名號有りて、無量の功德成就の帛を以て裹みて之を往生する所の者の心水の中に投ずるに、豈生を轉じて無生智と爲すこと能はざらんや。三には亦冰の上に火を然くに火猛ければ則ち冰液く、冰液くれば則ち火滅するが如し。彼の下品往生の人は法性無生を知らずと雖も但佛名を稱する力を以て往生の意を作し、彼の土に生ぜんと願じて既に無生の界に至る、時に見生の火自然にして滅するなり。 又問て曰く。何の身に依るが故に往生を説くや。答て曰く。此の間の假名人の中に於て諸の行門を修む。前念は後念の與に因と作る、穢土の假名人と淨土の假名人と決定して一なることを得ず、決定して異なることを得ず、前心後心も亦是くの如し。何を以ての故に、若し決定して一ならば則ち因果無けん、若し決定して異ならば則ち相續に非ず。是の義を以ての故に、橫竪別なりと雖も始終是一の行者なり。 又問て曰く。若し人但能く佛の名號を稱へて能く諸の障を除かば、若し爾らば、譬へば人有りて指を以て月を指すが如し。此の指能く闇を破すべきや。答て曰く。諸法は万差なり、一槩すべからず。何となれば自ら名の法に即せる有り、自づから名の法に異なれる有り。名の法に即したる有りとは、諸佛・菩薩の名號、禁呪の音辭、修多羅の章句等の如き是なり。禁呪の辭に「日出で、東方乍ち赤く乍ち黄なり」と曰はんに假令ひ酉亥に禁を行ふも患へる者亦愈ゆるが如し。又人有りて狗の所噛を被らんに虎の骨を炙りて之を慰せば患へる者即ち愈ゆるも、或は時に骨無くば、好く掌を攋げて之を摩り、口の中に喚びて「虎來虎來」と言はんに、患へる者亦愈ゆるが如し。或は復人有りて脚轉筋を患はんに、