亦毎に世俗の君子有りて來りて法師を呵して曰く。十方佛國皆淨土爲り、法師何ぞ乃ち獨り意を西に注むるや、豈偏見の生に非ずやと。法師對へて曰く。吾既に凡夫にして智惠淺短なり。未だ地位に入らず、念力均しくす須けんや。艸を置きて牛を引くに恆に心を槽櫪に繋く須きが如以し。豈縱放にして全く歸する所無きことを得んやと。復難者紛紜たりと雖も而も法師獨り決せり。是を以て一切道俗を問ふこと無く但法師と一面相遇ふ者は、若し未だ正信を生ぜざるには勸めて信を生ぜしめ、若し已に正信を生ぜる者には皆勸めて淨國に歸せしむ。是の故に法師命終の時に臨みて、寺の傍の左右の道俗皆旛花の院に映ずるを見、盡く異香を聞ぎ、音樂迎接して往生を遂げたり。餘の大德命終の時に臨みて皆徴祥有り。若し具に往生の相を談ぜんと欲はば、竝びに不可思議なり。
[第四大門 二、諸經所明念佛]
第二に此彼の諸經に多く念佛三昧を明して宗と爲ることを明かすとは、中に就て八番有り。初の二は一相三昧を明し、後の六は縁に就き相に依て念佛三昧を明かす。 第一に『花首經』(卷一〇意)に依るに「佛堅意菩薩に告げたまはく。三昧に二種有り。一には一相三昧有り、二には衆相三昧有り。一相三昧とは、菩薩有り、其の世界に其の如來有まして現在に説法したまふを聞く。菩薩是の佛の相を取る、現に前に在まし若しは道場に坐し若しは法輪を轉じて大衆圍遶するを以て是の如きの相を取る。諸根を收攝して心馳散せず、專ら一佛を念じて是の縁を捨てず。是の如き菩薩は、如來の相及び世界の相に於て無相を了達し、常に是の如く觀じ是の如く行じて是の縁を離れず。是の時に佛像即ち現じて前に在りて而も爲に法を説きたまふ。菩薩爾の時深く恭敬を生じて是の法を聽受し、若しは深若しは淺、轉た尊重を加ふ。菩薩是の三昧に住して諸法皆可壞の相を説くことを聞く。