三寶を信向せば、此の死を免るべしと。即ち此の法に依て心を專にして信向す。刹鬼門に到りて功德を修するを見、遂に害すること能はず。鬼即ち走り去りぬ。其の人斯の功德に縁て壽百年を滿ちて死して天に生ずることを得たり。復一の長者有り、名を執持と曰ふ。戒を退けて佛に還し現に惡鬼に之を打たる」と。 第四に問て曰く。此の念佛三昧は但能く諸障を對治し唯世報を招くのみなりや、亦能く遠く出世無上菩提を感ずや、以不や。答て曰く。得べし。何となれば『華嚴經』(晋譯卷二二-二七意)の十地品に云ふが如し。始め初地より乃至十地まで一一の地の中に於て皆入地の加行道と地滿の功德利と已不住道とを説き訖りて即ち皆結して云く。「是の諸の菩薩餘行を修すと雖も皆念佛・念法・念僧を離れず。上玅の樂具もて三寶を供養す」と。斯の文證を以て知ることを得。諸の菩薩等乃至上地に常に念佛・念法・念僧を學して方に能く無量の行願を成就して功德海を滿す。何に況や二乘・凡夫淨土に生ずることを求めて念佛を學せざらんや。何を以ての故に。此の念佛三昧は即ち一切の四攝・六度を具する通の行、通の伴なるが故なり。 第五に問て曰く。初地已上の菩薩は佛と同じく眞如の理を證するをもて佛家に生ずと名く。自ら能く佛と作りて衆生を濟運す。何ぞ更に念佛三昧を學して佛を見たてまつらんと願ず須きや。答て曰く。其の眞如を論ずれば廣大無邊にして虚空と等し。其の量知り難し。譬へば一の大なる闇室に若し一燈・二燈を然すが如し。其の明徧しと雖も猶闇と爲すなり。漸く多燈に至りて大明と名くと雖も豈日光に及ばんや。菩薩の所證の智は地地相望むるに自ら階降有りと雖も、豈佛の日明の如くなるに比ぶることを得んや。
[第五大門]
第五大門の中に四番の料簡有り。第一に汎く修道の延促を明して速やかに不退を獲しめんと欲す。第二に此彼の禪觀を比挍して往を勸む。