是に於て大衆皆佛の勸に從ひて合掌して哀を求む。爾の時彼の佛大光明を放ちて觀音・大勢と一時に倶に到りて大神呪を説きたまふ、一切の病苦皆悉く消除して平復すること故の如し。然るに二佛の神力亦齊等なるべし。但釋迦如來己が能を申べずして故らに彼の長を顯したまふことは、一切衆生をして齊しく歸せざること莫からしめんと欲してなり。是の故に釋迦處處に歎歸せしめたまへり。須く此の意を知るべし。是の故に曇鸞法師の正意西に歸す、故に『大經』に傍へて奉讚して(讚彌陀偈)云く。「安樂の聲聞・菩薩衆、人・天、智慧咸く洞達せり、身相の莊嚴殊異無し、但他方に順ずるが故に名を列ぬ、顏容端正にして比ぶべき無し、精微妙躯にして人天に非ず、虚無の身無極の體なり、是の故に平等力を頂禮したてまつる」と。
[第八大門 三、往生意趣]
第三に往生の意を釋すとは、中に就て二有り。一には往生の意を釋し、二には問答解釋す。 第一に問て曰く。今淨土に生ぜんことを願ず、未だ知らず何の意を作すや。答て曰く。只疾く自利・利他を成じ利物深廣ならんことを欲す。十信・三賢、攝受正法、契會不二、見證佛性、明曉實相、觀照暉心、有無二諦、因果先後、十地優劣、三忍三道、金剛無礙、證大涅槃。大乘寬く運びて無限の時に住せんと欲す。無邊の生死海を盡さんが爲の故に。 問に三番有り。 問て曰く。淨土に生ぜんと願ずるものは利物を欲するに擬すといはば、若し爾らば所拔の衆生は今現に此に在り、已に能く此の心を發得すれば只應に此に在りて苦の衆生を拔くべし。何に因てか此の心を得竟りて先づ淨土に生ぜんと願ずるや。衆生を捨てて自ら菩提の樂を求むるに似如たるをや。答て曰く。此の義類せず。何となれば『智度論』(第七七巻意)に云ふが如し。「譬へば二人倶に父母眷屬の深淵に沒在するを見るに、一人は直ちに往いて力を盡して之を救ふ、力の及ばざる所、相與倶に沒す。一人は遙かに走り一の舟船に趣き乘り來りて濟接するに竝に難を出づることを得るが如し。