菩薩も亦爾なり。若し未だ發心せざる時には、生死に流轉すること衆生と別なること無し。但已に菩提心を發す時は、先づ願じて淨土に往生し、大悲の船を取りて無礙の辨才に乘じて生死の海に入り、衆生を濟運すべし」と。二に『大論』(卷三八意)に復云く。「菩薩淨土に生じて大神通を具し辨才無礙にして衆生を敎化する時も尚衆生をして善を生じ惡を滅し道を增し位を進めて菩薩の意に稱はしむること能はず。若し即ち穢土に在りて拔濟する者は闕けて此の益無し。鷄を逼めて水に入るるが如以し。豈能く濕はざらんや」。三に『大經の讚』(讚彌陀偈意)に云く。「安樂佛國の諸の菩薩は、夫れ宣説すべきところには智慧に隨ふ、己が萬物に於て我所を亡ず、淨きこと蓮花の塵を受けざるが如し、往來進止汎べる舟の若し、利安を務と爲して適莫を捨つ、彼も己も猶空にして二想を斷ず、智慧の炬を然して長夜を照らす、三明六通皆已に足れり、菩薩は万行心眼に觀ず、是の如きの功德邊量無し、是の故に心を至して彼に生ぜんと願ず」と。
[第九大門]
第九大門の中に兩番の料簡有り。第一に苦樂善惡相對す。第二に彼此の壽命の長短を明して比挍す。
[第九大門 一、二土苦樂]
初段の中に就て二有り。一には苦樂善惡相對す。二には『大經』を引きて證と爲す。 初に苦樂善惡相對すと言ふは、此の娑婆世界に在りては苦樂二報有りと雖も恒に以て樂は少く苦は多し。重きは則ち三塗に痛燒し輕きは則ち人天にして刀兵・疾病相續きて連り注ぎ、遠劫より已來斷ゆる時有ること無し。縱ひ人天に少樂有りとも猶し泡沫・電光の速に起り速に滅するが如し。是の故に名けて唯苦唯惡と爲す。彌陀の淨國は水鳥・樹林常に法音を吐きて明かに道敎を宣ぶ、淸白を具足して能く悟入せしむ。 二に聖敎を引きて證と爲すとは、『淨土論』(意)に云く。「十方の人天彼の國に生ずる者は即ち淨心の菩薩と無二なり。