三學自然に勝進して万行普く備はる。故に『大經』(卷下意)に云く。「彌陀の淨國は造惡の地毛髮許りの如きも無ければなり」と。
[第十一大門 二、死後受生勝劣]
第二に次に衆生の死後受生の勝劣を辨ずとは、此の界の衆生、壽盡き命終りて皆善惡の二業に乘ぜざること莫し。恆に司命の獄率、妄愛の煩惱の爲に相與に生を受く。乃ち無數劫より來未だ免離すること能はず。若し能く信を生じて淨土に歸向し意を策まして專精なれば、命終らんと欲する時、阿彌陀佛觀音聖衆と與に光臺もて迎接したまふ。行者歡喜して隨從し合掌して臺に乘じ、須臾にして即ち到りて快樂ならざること無く、乃至成佛す。又復一切衆生、造業不同なり。其の三種有り。謂く上中下なり。皆閻羅に詣して判を取らざること莫し。若し能く信佛の因縁もて淨土に生ぜんと願じて所修の行業竝びに皆廻向すれば、命終らんと欲する時佛自ら來迎して死王に干されず。
[第十二大門 總結勸信]
第十二大門の中に一番有り。『十往生經』に就て證と爲して往生を勸む。佛、阿彌陀佛國に生ぜんことを説き、諸の大衆の爲に觀身正念解脱を説きたまふが如し。『十往生經』に云く。「阿難佛に白して言さく。世尊、一切衆生の觀身の法は其の事云何。唯願はくは之を説きたまへ。佛、阿難に告げたまはく。夫れ觀身の法は、東西を觀ぜず、南北を觀ぜず、四維・上下を觀ぜず、虚空を觀ぜず、外縁を觀ぜず、内縁を觀ぜず、身色を觀ぜず、色聲を觀ぜず、色像を觀ぜず、唯無縁を觀ず。是を正眞の觀身の法と爲す。是の觀身を除きて十方に諦かに求むるに、在在處處に更に別に法として解脱を得ること無し。佛復阿難に告げたまはく。但自ら身を觀ずるに善力自然なり、正念自然なり、解脱自然なり。何を以ての故に、譬へば人有りて精進直心にして正解脱を得るが如し。