此の三品は唯是小乘の聖人等なり。下輩の三人は是大乘始學の凡夫にして、過の輕重に隨ひて分ちて三品と爲す。共に同じく一位にして往生を求願すといふは、未だ必ずしも然らざるなり、知るべし。
[和會門 道理破]
第二に即ち道理を以て來し破すとは、上に初地より七地に至る已來の菩薩と言ふは、『華嚴經』に説くが如し。初地已上七地已來は、即ち是法性生身・變易生身なり。斯等は曾て分段の苦無し。其の功用を論ずれば、已に二大阿僧祇劫を經て、修の福・智を雙べ人法兩つながら空ず、並びに是不可思議、神通自在にして轉變無方なり。身は報土に居して常に報佛の説法を聞き、十方を悲化して須臾に徧滿す。更に何事を憂へてか、乃ち韋提其が爲に佛に請へるに藉りて、安樂國に生ずることを求めんや。斯の文を以て證するに、諸師の所説豈錯に非ずや。上の二に答へ竟んぬ。上が下といふは、上に種性より初地に至る已來と言ふは、未だ必ずしも然らず、『經』(智度論卷三八意)に説くが如し。「此等の菩薩を名けて不退と爲す、身生死に居して、生死の爲に染せられざること、鵝鴨の水に在るに水濕すこと能はざるが如し」と。『大品經』(智度論卷二一意)に説くが如し。「此の位の中の菩薩は、二種の眞の善知識の守護を得るに由るが故に不退なり。何となれば、一には是十方の諸佛、二には是十方の諸大菩薩、常に三業を以て外に加して、諸の善法に於て退失有ること無からしむ。故に不退の位と名くるなり。此等の菩薩も亦能く八相成道して衆生を敎化す。其の功行を論ずれば、已に一大阿僧祇劫を經て、福・智等を雙べ修す」と。既に斯の勝德有り、更に何事を憂へてか乃ち韋提の請に藉りて生ずることを求めんや。斯の文を以て證す。故に知んぬ、諸師の所判還て錯と成るを。此れ上輩を責め竟んぬ。次に中輩の三人を責むれば、諸師の云へる中が上は是三果の者なりと、然も此等の人は三塗永く絶えて、四趣に生ぜず。現在に罪業を造ると雖も、